私の目

網膜色素変性症による 95%以上の視野喪失 と診断されてから

・98年の11月から岩手で暮らすようになり、翌’99年2月に、カフェほうほう開店、05年からホームページを始め、『ほうほう日記』で目の病について書くようになり、同じ病の仲間が応援に訪ねてくれ、進行の具合を気遣ってくれる。
初めての方がFさんで、奥さんに付き添われてこられた。

・その後、次々に応援にきてくれる仲間達。皆さん、私より進行しているのに・・・。
三十歳で発病して光を失った仲間は同病の仲間三人と店に応援にかけつけてくれ、仲間と楽しそうに会話しながらブランチをしてくれた。
「そこの右側に・・・があります」という女性二人のガイドに従い、上手に食事されていた。食後、お席に伺って話ができ、食事の模様を聞かされ驚いた。
優しくガイドしていた女性達は私より重症のようで、私と同程度のもう一人の方が三人の引率役でした。
駅に向かう彼らを見送る私に、引率の仲間が状況を伝えてくれた。「大丈夫だから!」「頑張ってね!」と手を振り声をかけてくれた四人。引率の仲間以外は、それぞれ別の方向に笑顔を送ってくれた。声を出せずに涙が止まらなかった。

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同病の仲間への何らかの参考になればと、私の自覚する進行の様子を伝えようと思いパソコンに向かっています。
暗くなくて、慌てなければ(これが結構難しいのですが・・・)、ユックリと歩けます。

友人たちの暖かい応援のお陰で、07年からは盛岡に一人で出かけて、音楽の講座をやっています。

モノにつまずいたり、ぶつかったりしながら、或いは広い視野を必要とする共同作業などを通じ、視野の喪失を実感するのに、のんびりした岩手暮らしの五年が必要だった。

特に、イベントでのテント張り!
全員の手が塞がりながら「そっちを少しあげて」とかの指示の方向が全く見えないことが判明。

モノにぶつかって歩くのは生来のオッチョコチョイだと思っていたのだが。
都内の某大学病院での、丸一日の精密検査の結果から「現在、治療法が見つかっていない網膜色素変性症です。すでに95%の視野喪失です」「進行すれば失明します」と診断が下りたのが98年の9月だった。

小さい頃から、他人様に比べ、自分の目が何となく悪いと認識はしていた。
五十歳前から、譜面の細かい部分が見えなくなり「いよいよ老眼か、遠近両用の眼鏡を作ろう」と町の眼科医に行き「ついでに健康チェックもお願いします」と頼んだ際に、私の目を機械で覗き「難病に指定されている網膜色素変性症だと思います、大学病院での精密検査を予約しましょう」と、その場で電話予約、二週間後に診断がでた。


思い返せば、物心ついた頃すでに、暗い処でモノが見えない、所謂、鳥目だった。
小学四年生で乱視を伴なう近視になり、眼鏡をかけた。左目は弱視だった。渋谷のプラネタリューム見学では「あんまり見えない」実感を強くしたが、視野の喪失感は98年まで全くなかった。
先天性なので、少しづつの視野の喪失。
十代では東京でも星空が見えたし、品川の空に流れ星を見つけたこともある。
二十代、町のメガネ屋さんで眼鏡を新調するさいの検眼で「この眼はいずれ失明しますヨ」と言われたが、その意味さえ判らなかった。
夏の休暇を過ごす岩手の澄んだ夜空に、綺麗な天の川も認識でき感動した三十代、車の普通免許、自動二輪の中型免許も取得できた。

中学から剣道を始め、
高校入学から、一年半軟式テニスの前衛を楽しんでいたが、一年の夏の合宿練習で暗くなったコートでのボレーのレシーブ練習で、見えないボールをカンで打ち返し、剣道をやっているので感がよいのだわい!』と内心、自慢していた。
つまり他の誰もが、同じように暗くて見えないが、カンを頼りに動いていると思っていた。二年生の夏からは音楽の部活が忙しくなりテニスを辞めた。
中学三年でギターと出逢い、音楽にのめり込み、目のハンディを一層、意識せずに居られたのかも知れない。

三十歳代初めから、車、オートバイを始めた。
十年間のバイク・ライダーとしてのライフスタイルは、音楽への反映し数々の作品となったが、青山墓地下の交差点で信号無視の車との二年連続の事故、XL250R、翌年セロー廃車をキッカケに降り、以後は車のみを運転していた。

大学病院で「この目で車の運転が、よく出来ましたネェ!」「信じられない!」「疲れたでしょう?」と驚かれた。私の場合は幸運にも視野喪失に伴なう視力の減退が少なかったようだ。
岩手への家族旅行も私一人の運転で、毎年続けていた。



思い付いた事を書き述べてみました。
残っている視力は白内障手術の際に埋め込まれた眼内レンズのお陰で、楽譜や読書は裸眼で出来るようになりました。
05年から普通のパソコンで、作業を眼鏡使用で行えています。もっともパソコンのポインターの在り処を認識するのに『ユックリ軌跡』が写る様にコントロールパネルで設定したり、パソコンの得意な友人に教えを受けながらやってます。

98年の精密検査のストレス以後、確かに見えなくなった実感はあるのですが、余り悲観は在りません。
見える部分が残された5%の視野にしろ、数々の感動するものが見えているのだから、非常に有難いと思っています。カフェほうほうという未経験の仕事を始めた事も、余り悲観的にならずに居られたと思います。
それに幸い音楽を続けられている。
どちらも人様との出遭い、そして交流が広がり、助けられていると思っています。有難いことです。

読み易い表示ができているのだろうか?と思いながらタイプしました。何か思い出したら、此処に書き加えます。   1月 08年




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